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肩書き文化クラッシャー・菅直人 :: 政治
2011年07月15日12時30分

菅氏は首相記者会見をブログレベルにまで引き下げた。肩書き文化がぶっ壊された次期首相は本当に大変だ。

 13日に「脱原発依存」を記者会見で表明した菅氏だが、案の定、次のように言い訳をしている。

「菅直人首相は15日の閣議後の閣僚懇談会で、13日の記者会見で将来の『脱原発』に言及したことに関し『個人の考えとして示した。原発事故後の原発、エネルギー政策に関する自分の考え方について断片的に話してきたことを整理した』と述べた。閣僚から批判的な声が相次ぎ、政府の基本方針ではないとの考えを説明したものだ」(日経新聞)

 今でこそ、菅氏の言葉を信じたり、「勝手に期待」する人は一掃されたが、少し前までは、菅氏に「勝手に期待」する人が後を絶たなかった。郵政再国営化、TPP、税と社会保障の一体改革、震災・原発対応……と、菅氏はそれらの期待をことごとく裏切った。

 いや、正確には、菅氏に実行能力がないことは明白だったのだから、「勝手に期待」した人が悪いということも言える。さらに言えば、「勝手に期待」する人たちの支援によって菅政権が延命してきたという側面もあるわけで、「勝手に期待」する人は、被害者ではなくむしろ加害者である。

 では、どうして「勝手に期待」する人が後を絶たなかったのだろうか。それは、彼らが「バカ」だからではない。むしろ、高偏差値で肩書きも立派な人たちが、菅氏の言葉に「勝手に期待」をしていた。海外の一流メディアも菅氏に「勝手に期待」していたのだから驚く。

 立派な肩書きを持つ人たちは、当然のことながら、その肩書きに見合った社会的責任を果たしている。ブログなどで個人的見解をあくまで趣味として書く時は別だろうが、仕事や公的な場所での発言には、それなりの裏付けと準備が必要だということを、当たり前のようにわかっている人たちだ。

 そんな彼らの感覚からすれば、まがりなりにも「内閣総理大臣」という日本トップクラスの肩書きを持つ人物が、公的な記者会見などで政策を打ち出したのだから、必ず裏付けと準備があることを大前提にしてしまう。

 実際には、菅氏には裏付けも準備も何もなく、思いつきで発言しているだけなのだが、そんな「ならず者」が、高度な肩書き社会の中に紛れ込んでいるとは、つゆほども想像できない。だから、「こんなに立派なセンセイが!」という人まで、菅氏に「勝手に期待」するという、異常事態が相次いだのである。

 逆に、高度な肩書き社会に深く入り込んでいない多くの一般人の方が、菅氏の本質を鋭く見抜いていたように思う。菅氏の発言は、首相という肩書きに見合うものではなく、あくまで個人的見解に過ぎないということは、一歩引いてみれば明らかだった。

 肩書きに伴う大前提を無視し、無責任な行動を続けた菅氏は、公的な記者会見などを、まるでブログのようなフラットな言語空間にしてしまった(それも意図的ではなく、無能さゆえに結果的にそうなった)。そこでは、「あのセンセイのお言葉だから」という前提は通じにくい。

 これは一種の「革命」である。もはや、首相が何を言っても、われわれは疑いしか抱くことができない。「どうせ思いつきだろ」とか、「どうせ今から考えるんだろ」とか、「どうせ実現できなくて、飽きた頃にまた別のことを思いつきで言い出すんだろ」としか思えなくなっている。

 次期首相は、菅氏によってぶっ壊された肩書き文化を建て直すことから始めなければならない。もし、建て直すことができなければ、個人的なパーソナリティが、公的な肩書きに伴う義務と責任と自己抑制を無効化するという、非常に危うい政治状況を生み出しかねないのである。

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