29 5 / 2011
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1……史上初のグローバル金融危機
人類は、いつの時代も、宗教的・道徳的・政治的・経済的な危機を乗り越えてきた。とくに資本主義が「勝利」してからは、むしろ経済的な危機が頻発し慣れっこになってしまい、当然のことのように乗り越えてきたという観さえある。
しかしながら、現在、約束されていると思われていた明るい未来が、大恐慌に襲われようとしている。あるいは、われわれの生活様式や社会組織に、非常に根源的な変化の波がじわりと押し寄せようとしている。こうしたショッキングな事態が進行していると、今、世界の多くの人が、不安を抱いているのではないだろうか。
では、その正体とは、いったい何であろうか?
今回の危機については、まず政治やイデオロギーにその原因が求められた。例えば、この危機はグローバリゼーションが破綻する兆候である、あるいは反対に、グローバリゼーションをもっと加速させなかったからだ、といった意見が聞かれた。官僚主義に終止符を打つべきだ、すみやかに規制を打ち出す必要がある、地球規模の組織的収奪をやめさせろ、といった意見も聞かれた。また、インフレやデフレの脅威も語られた。この危機は、借金の有害性の例証であるといった意見や、逆に借金しまくることが有利なのだといった意見もあった。民間銀行相互の競争の重要性を語る者や、民間銀行の国有化を訴える者もいた。
現在の金融危機は、地球規模に拡大したという観点においてのみ、史上初なのである。この危機は、経済危機をも引き起こしはじめたが、まだ通貨危機には至っていない。人類がこれまでに経験したすべての出来事のうちでも、今回の危機は、さまざまな面において根源的・破壊的であり、広範囲に影響をおよぼすものとなるだろう。この危機は終息するのではなく、加速する出来事として「21世紀の歴史*1」を刻んでいくことになるだろう。
2……歴史的な〈中心都市〉での金融危機
〈中心都市〉と金融危機
この危機を理解するためには、これまでに発生した同じような出来事と、歴史的に比較検証してみる必要がある。
ブルージュ*2で一二世紀に資本主義が開花して以来、大規模な金融危機は、毎回、その当時の金融の中心地で発生してきた。ほとんどのケースでは、金融の中心地とは、経済的・政治的な〈中心都市*3〉である。危機は、まず〈中心都市〉の通貨・財政・金融機関が脆弱化することからスタートする。そして、適切な措置が打ち出されれば〈中心都市〉は強化されるが、もし解決手段を見出せない場合には〈中心都市〉は他の都市へ移動することになる。
例えば、一六二〇年頃に発生した、ジェノヴァ*4の金融危機の場合を見てみよう。
アメリカ産の金や銀の主要マーケットであった〈中心都市〉ジェノヴァは、依存関係にあったスペインの景気が後退したことで、その影響をまともに受けてしまった。自由闊達なオランダ人たちが、新たに開設された大西洋貿易ルートを支配して、アメリカの金銀をアムステルダムに引き寄せたが、ジェノヴァはこれを阻止することができなかった。こうして、資本主義の中心は、地中海のジェノヴァから、大西洋のアムステルダムに移動することになった。
それまで、ブルージュ(大西洋)、ヴェネチア(地中海)、アントワープ(地中海)、ジェノヴァ(地中海)と、大西洋と地中海の間で〈中心都市〉は移転をくり返してきたが、アムステルダム以降、地中海に〈中心都市〉が戻ってくることはなく、地中海は世界資本主義の主役の座から転落した。地中海に面したスペイン王国・イタリア教皇国・フランス南部などの国々は、〈中心都市〉とのコンタクトさえ永遠に失うことになり、衰退を余儀なくされた。以後、彼らの生活水準は、アムステルダムの住民をはじめ、常に新興勢力の生活水準を下回ることになるのである。
次に〈中心都市〉となったアムステルダムでは、まだ自国市場は充分に整備されていなかったが、すぐに金融的な熱狂状態に陥った。一八三六年、富と豪奢の象徴であるチューリップの球根をめぐる投機、すなわち「チューリップ・バブル*5」が最高潮に達する。人々は、市場価格が急上昇するチューリップの球根を争って買い求め、その価格は、優秀な技能をもった職人の年間所得の二〇倍にまで跳ね上がった。
やがて、価格が常軌を逸しているのではないかと人々が不安を感じはじめ、一六三七年、買い手が付かなくなるという噂が広まり、チューリップ・バブルの崩壊*6が起きる。熱狂はパニックに変わり、価格高騰と同じ勢いで価格が暴落した。
チューリップ・バブルは、のちにフランス語で「空疎な貿易」(commerce duvent)と呼ばれるようになるが、このバブル経済に終止符を打ち、危機を乗り越えたことによって、ネーデルラント連邦共和国*7の金融市場は強化された。この危機の克服により、ネーデルラントは、自信をもって世界中から資本を引き寄せ、集めた資本を自らの目的のために投資し、貯蓄から生じる利益の大半を吸い上げることができるようになったのである。
ネーデルラントは、この資本を使って、とくに商業船団を組織し、海軍を強化した。こうしてアムステルダムは、一世紀半にわたって世界に君臨することになるのである。
ロンドンの金融危機 —— 一七二〇年/一八四四年/一八九〇年
一七二〇年、政治面・経済面・金融面でアムステルダムの強力なライバルであったロンドンでは、株価・通貨のバブル崩壊により、「南海会社」ならびに数行の銀行が破綻した(「南海泡沫事件*8」)。これを教訓にして、イギリス政府は「シティー*9」を整備し、イギリスがネーデルラント連邦共和国から権力を奪い取る土壌を作り出した。
一七八〇年には、優秀な金融マンの後を追うように、オランダの海運業者は、オランダから抜け出し、ヨーロッパで最も将来が確実で活気溢れる都市であるロンドンへと移住していった。イギリスの優位は決定的なものとなった。その八年後に、オランダの主要な銀行は破綻し、資本主義の〈中心都市〉は、テムズ川のほとり*10に拠点を構えるために、躊躇することなく北海を越えて移動した。ロンドンでは、民主主義と市場が歩調をあわせて進化することになった。
一八四四年、新たに発生した金融危機に対処するため、イングランド銀行が中央銀行化され、紙幣発行の独占権が与えられ、自国通貨の平価を固定するために金本位制が導入された。これによって、シティーは金融市場としての基盤を固めた。
一八九〇年ごろ、外見上は栄華を誇っていた大英帝国だが、自国植民地の防衛費のために積みあがった借金に疲弊していた。とくに、英国によるインド統治は、予想を裏切る、まったくの浪費であった。こうして、半世紀前に多くの銀行が破綻したように、この時もほとんどの銀行が破綻した。だが、ロンドンはこの危機を乗り越えることができなかった。
こうして、二〇世紀に入る少し前に、世界経済の八番目となる〈中心都市〉はボストンへ、そして金融の中心は「ウォール街」へと移転した。
アメリカの〈中心都市〉も、アムステルダムやロンドンがそうであったように、金融危機の発生によって鍛えられた。一九〇七年、株価が暴落し、二〇世紀最初の金融危機が勃発する。これを教訓として、ワシントンに「連邦準備制度*11」(FRS)が設けられ、国際貿易では、ドルが次第にポンドに取って代わるようになる。
この時点で、国際金融市場の様相がまたしても変化した。第一次世界大戦が近づくにつれ、J・P・モルガン、ロックフェラー、チェース、シティ、リーマン・ブラザーズ、モルガン・スタンレーといった、一九世紀に設立された銀行の大半は、大規模に預金を集めて証券に投資する機関となった。戦時公債からはじまり、しだいに株券や債券を扱うようになった。企業は、資本市場から資金調達を行なうようになり、少しずつ株式市場の動向によって企業戦略を練るようになった。金鉱脈や油田に関する新たな情報など、利益をもたらす情報を事前に握った〈インサイダー〉たちは、他人の貯蓄を利用して莫大な資産を築き上げていっ
たのである。
第一次世界大戦の直前、ヘンリー・フォードによってはじめられたテーラー・システム*12が普及すると、この戦争によってアメリカの機械生産の産業化か加速する。労働者の賃金は上昇した。持ち株会社や信託業務など、新たな投資手段が、何ら規制を受けることなく数多く登場した。預金業務と投資業務を同時に行なっていたアメリカの銀行は、イギリスの銀行に取って代わりはしめた。アメリカの銀行は、住宅や証券を購入するための資金を借り入れようとする、国内ならびに世界中の人々に融資した。アメリカの資本主義は、最貧層、とくに黒人やアメリカ東部地域の白人を除き、絶頂期に向かったかに見えたのである。
ところが、まさにこの時期に、現在の危機が起こる前までは史上最悪であった危機が、アメリカに訪れる。現在起こっている危機を分析するためには、この危機は教訓に満ちている。
一九一九年ごろから、さらに金持ちになろうと夢中であったアメリカ人たちは、
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